木更津の整体【すこやか整体院】

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"すこやか整体院 けんけん先生ってどんな人!?”

はじめまして、すこやか整体院 院長の山田真人です!

「ご縁」の始まりのご挨拶

「袖振り合うも多生の縁」とも言いますし、「ご縁」を大切にしたい私としては、当ホームページをご覧いただいた方に、自己紹介という形でご挨拶をさせて頂きます。

ちょっぴ~り長い自己紹介ですが、院長 山田真人って、どんな人物なのか!?少しだけ(長く)紹介させて下さい。

題して

院長の治療家人生への道のり・現在・そして将来の目標


その1~死におびえた幼少時代~

今改めて人生を振り返ってみると、私は、治療家として人生を歩むべくして生まれてきたような気がしています。



それは史上最悪の大ケガから始まった~

私は昭和40年に町田市で生まれました。生まれながらにとても体が弱く、運動能力は極端に低く、両親は私の成長をハラハラしながら見ていました。首の座りが遅く、ハイハイや歩行も極端に遅かったそうです。

そして運命は5歳の時にやって来ました。

ある日曜日、近所の二歳年下の幼馴染達と数人で、畑を耕すクワを使って「落とし穴」を掘っていました。土を手でかき出す為に私が穴の中に入っていた時、T君が私の頭めがけてクワを振り下ろしたのです。そのクワは私の頭に見事に命中し、頭のてっぺんにクワが刺さってしまいました!                                         

すぐに被っていた帽子の内側から生ぬるい物(血液です)がオデコまで流れ出てきました。それを見たT君は泣きながら走ってどこかへ行ってしまいました。もちろんその場にいた他の友達も皆どこかに行ってしまいました。

頭にクワが刺さった私は何が起きたか分からず、クワを自分で抜くと血まみれになった手を見て、子供心に事の重大さに気づき、自分も泣きながら家に帰った事を今でも鮮明に覚えています。

その後、私は病院に運ばれ、当時ドクターから説明された内容は、今思い出すだけでもゾっとしますが

① レントゲンに刺さったクワの刃は、脳を5ミリ程逸れていたので即死しなかった。 
② 命は助かっても、ほぼ何かしら障害を負う可能性がある。             
③ 子供で頭蓋骨が柔らかいので助かった。                    
④ もし吐く事があれば、脳の手術を行う事になるが、その場合植物人間になる可能性が高い  

等々、今この話を書いていても頭部がゾワゾワするような話です。

しかも、その時私も同席しており、子供心に「ボクは死ぬのかな~」と漠然と思いながら聞いていました。

今では考えられない事ですが、手術どころか入院すらせずに、クワの刺さって開いた傷口を12針程縫い、レントゲンを撮って帰されました。そして、その日を境に実になが~い病人生活が始まったのです。

頭に怪我をした後は、常にめまいと頭痛や吐き気に襲われる日々が続き、1年間以上家で寝たきりの生活を強いられました。当時、引っ越して来て新しい幼稚園に入園したばかりでしたが、その日から卒園日まで登園する事はなく、後に卒園式だけの参加となりました。

小学校に入学してからも、運動等ができる状態ではなく、三年生まで体育はほとんど見学する有様で学校自体も休むことが多かったそうです。その後10代の半ばまでは、めまいと頭痛に悩む日が続きました。

そんな体験をした私は、血だらけになった自分の姿が脳裏に浮かんでは消え、「ボクはこのまま死んじゃうのかな?」と、真剣に死におびえた時がありました。そんな子供時代を過していたので、元気に走りまわる友達を見て「元気な体っていいな!」と羨ましく思い、健康に憧れるようになっていきました。



怪我の後遺症から始まった「腰痛」との戦い           

小学4年生頃から、体育も参加できるようになりましたが、勿論体力はなく典型的な「もやしっ子」だった私は、親の勧めで少年野球を始める事になりました。日に日に体を動かす事と、動き回る体力がついて来たのですが、その頃から腰痛を発症するようになりました。

もっとも腰痛と言っても、動けないような痛みを出す訳ではなく「なんとなくいつも腰が痛い」と言った感じだったと思います。確か5年の頃に友達から付けられたアダナは「ジジイ」でした(笑)小学生のくせに、友達と遊んでいる時に「腰が痛い」と口癖のように言う訳ですから、当時の友達にはかなり変わった小学生に映ったのでしょう(笑)



余りにも強烈な思い出の~初・整体治療体験!!           

当時、両親はともに腰痛持ちだったようで、その時代には珍しいカイロプラクティック治療をおこなう整骨院に通院していました。子供ながら「腰が痛い」が口癖の私を、ある日そこの整骨院に連れていってくれました。

初めての経験がアメリカで本場のカイロプラクティックを学んだ先生の治療で、いわゆる「バキバキ」係のカイロです。初めての私は何をされるのか分からないまま、ベットの上に寝かされました。何をどうされたのかは記憶に有りませんが、腰を捻られた瞬間に「バキバキ」と言う衝撃的な音が体の中で鳴り響いた事が今でも鮮明の記憶に残っています。 

そして帰りに体が凄く「元気」になった思い出が、今でも昨日の出来事のようにハッキリと術後の爽快感と一緒に覚えている位です。その後もその先生の治療院にはお世話になり、高校を卒業するまで定期的に腰痛治療で通わさせて頂きました。

私にはその頃から漠然と思う事がありました。 

それは「オレも将来あんな仕事について、腰痛に悩む人などに健康になってもらえたらいいな~」と。今思えば幼少の頃に起きた大事故と、子供ながら腰痛を患いカイロプラクティックを受けて体が元気になる経験が、整体師という治療家を志す礎となっていたと思います。


その2~サラリーマンから治療家を志したあの頃~

中学に入学する頃には、完全に慢性の腰痛持ちとなり、目まいと頭痛に悩まされながら青春時代を過しました。それは社会人になっても治らず、正確に言えば開業して5年目位までは常に腰痛に悩まされていました。

2002年の春、それは突然襲って来ました。                                     

常に腰をかばう生活を送ってましたが、ある日また腰がギクッとなり、それ以来「坐骨神経痛」に悩まされる事になりました。

いや、あれは本当に辛かった!

とりあえず整形外科に行ったのですが、ドクターから「坐骨神経痛」と言われました。会社は数週間休み、整形外科に毎日通いましたが、日に日に「自分の将来を悲観」するようになっていきました。

そんなある日、妻に乗せられて(自分では運転ができなかった)ある整体院に行き、そこで坐骨神経痛の整体治療がスタートしました。幸いにも通院を重ねる毎に症状は徐々に和らいでいき、1ケ月も過ぎる頃には会社に通勤できるようになりました。

子供の頃に初めてカイロプラクティックを受けて元気になった感動が蘇り「オレはこんな仕事について、健康になる事の感動を多くの人に伝えたい」という思いが日々強くなり、どうしても勉強して技術を身につけたくなり、あれこれと調べ始めました。

しかしそこには大きな問題がありました。

その時の私は37歳、今の妻と再婚して2年、子供は中学の長男・長女の他、次男が産まれたばかり。しかも念願のマイホームを建てた直後だったのです。バブル時代と違い景気は良くなく、退職や転職は大きなリスクを伴う事でした。思い切って妻に「実は仕事を辞めて独立したいんだけど!」と切り出しました。当然反対される事を覚悟で。

妻から帰ってきた言葉は「いいよ、どうぞ」と言う、気が抜けるほどあっさりした返事で、一瞬「あれ?!」と思いましたが、理解してくれた嬉しさとともに、責任感とプレッシャーが一気に私を襲ってきました。妻の理解がなければ、今のすこやか整体院は無かった訳ですね。


その3~厳しい修行時代だったあの頃~

それから整体の修行に入るのですが、会社勤めをしながらの勉強となると、都内の学校には通えません。そこで選んだのは、私の坐骨神経痛を治してくれた整体院の先生の師匠に当たる大先生です。

ただこの大先生は年に1人しか弟子をとらないと言い、私が申し入れをした時には既にお弟子さんがいらして門前払いでした。そうなると無性に教わりたくなり、何度も電話をしてついに面接だけならと言う事で会って頂けることになりました。

そこで私は、また妻と次男の三人で大先生に会いに行きました。

→何故三人で行ったかと言うと、整体と言う仕事を妻に知ってもらうためです!

普通面接と言えば、一人で行くものですが、妻と子供と三人で行ったものですから、大先生も驚いたようです。しかし、それが功を奏し無事に面接は合格しました!

後日、大先生から「あなた一人で来ていたら受け入れなかった」と言われたので、一緒に行ってくれた妻に感謝です。

会社を辞めて独立開院するまでの日程を一年後と決め、月2回の研修に通い出しました。 実際に指導を受ける研修回数が少ないので、大先生より「砂袋で毎日揉む練習をして手を作りなさい」と宿題を頂きました。

これが想像以上に厳しく、肘から手のひらまでが擦れて血だらけになる荒修行でした。ケガを避けるため、軍手と長袖のトレナーを着て、肘から下を使って砂の入った袋を叩く・揉むを繰り返すのですが、まるで学生の頃の空手の稽古そのもの。これを1年間、毎日1時間以上続け、本当に空手家のような腕や手を作り上げました。

そうして1年後には20年弱勤めた会社も円満に退職、家族の理解もあり、晴々した気持ちで2003年10月11日に無事整体院を開業し、新しい人生のスタートを切りました。


その4~現実の厳しさを知った開業当時~

開業する事だけが目的で、開業後どう患者さんに来てもらうか等、何も考えることなく実に能天気な脱サラをしてしまったものです。しかもインターン経験ゼロと言う、今考えると自殺行為に等しいスタートでした。

なによりも臨床経験の不足が徹底的な致命傷となり、せっかく来て頂いた患者さんに満足して頂く施術ができない日々を送る事になります。

私が大先生から習った事は、「骨盤を矯正すれば全てが治る」と言う、実にシンプルで大雑把な理論。首が痛くても、足首が痛くても、喉が痛くても・・・何を質問しても「骨盤矯正で治る」の答えしか返ってきませんでした。                                    

もちろんその道の大先輩が言う訳ですから、体は「骨盤矯正で全て治るんだ」と思い込むのは当たり前です。 ある意味それは正しいのですが、それでけで全てが治るとは・・・ちょっと無理がありますね。      

幸いにも砂袋で手をしっかりと作り込んでいたので、整体を受けて頂いた多くの方には、「揉む」事に関しては高く評価して下さいましたが、私の「治したい」と言う思いとは少しずつ離れていきました。

そして私の人生を変える出来事が起きました。

私が会社勤めの時お世話になっていた方から「腰を痛めたから治して欲しい」と言う予約が入りました。サラリーマン時代にお世話になった方が来てくれることが嬉しく、いつもより気合いが入りました。 

しかし開業して数カ月間、ギックリ腰の患者さんは来た事がなく、初めての症例です。私は教わった通りに腰を揉みほぐし、骨盤矯正も行いました。そうです、骨盤の矯正さえすれば、どんな症状でも必ず良くなるはずだったのですが・・・結果は更に悪化させてしまいました。

2時間近くあれこれ試しましたがどうにもならず、最後は患者さんから「山田さん、今日はもういいよ」とまで言われる始末。そばで施術を見ている奥さんに、「骨盤が整えば良くなるはずなのですが」と言い訳までしていました。          

その後それを切っ掛けに、私は嫌と言うほど臨床経験不足を味わう事になりました。

自信喪失が尾を引いたのが原因か、来院者数も減少していき、とうとう僅かな貯蓄も底をつきはじめ、半年たらずで「脱サラ」した自分を後悔するようになりました。

その頃は、夕方からスーパー銭湯でリラクゼーションマッサージのアルバイトを夜中までしたり、ファミレスで早朝の掃除をしたり、ファーストフード店でアルバイトをしたりと、長男が高校に入る頃には収入を得るため、副業をあれこれとして生計を立てていました。

そんなある日、知り合いの先生から「凄い療法があるから一緒に話を聞きに行かないか?」と誘いがあり、何か成功のヒントがあるかもしれない!と、藁にもすがる気持ちで話を聞きに行く事にしました。その凄い療法との出会いが、私の脱サラ人生、整体師としての第二章の幕開けとなるのでした。


その5~更に厳しい修行時代を迎えた再出発~

その療法とは自然形体療法と言い、揺らす・触れる・けん引する等で体の歪みを改善し、色々な症状に高い効果を表す手法でした。当時その手法を学べるのは、東京の本部か浜松の支部だけです。東京の本部は自然形体療法の創始者である山田洋先生の直の指導でしたが、毎月1回の指導で、学び終えるまで数年かかるとのこと。既に開業していて、もう後がない私に数年なんて悠長な事は言ってられません。浜松の学院は、短期住み込み合宿可能ということで、さっそく妻と次男とともに、浜松まで見学に行きました。

見学中、先生と話していると、妻が突然「もうこのまま住み込んじゃえば」と爆弾発言。金策もしなくちゃならない状況で、「では来週からお願い致します」と入学する事に決めてしまいました。問題は学費ですが、妻がポケットマネー?で、ポンと用立ててくれました。実はそのお金をどこから工面して来たのか、私は今も知りませんが(怖くて聞けない)、妻の理解があって実現した脱サラのやり直しです。

ちらほらと入っている患者さんの予約を取り消してもらい、いよいよ二ヶ月間近い住み込み研修がスタートしました。研修期間中は、朝8時40分~夜の10時過ぎまで、遅い時は深夜12時近くまで猛特訓が続きます。師匠の治療院がお休みの日も、一日中練習につぐ練習で、肉体的にも精神的にも限界を感じる程の辛く、本当に整体漬けの毎日を送りました。

住み込みの後半は、実際に患者さんへ施術させてもらうことで、自信もつきました。しかし研修も終わり近くになると、体重は3キロ程痩せ、目の周りはクマができ体力はなくなり、日曜日は早く研修を終えて死んだように眠ったり、昼休みはとにかく寝て過ごしました。

そんな時に妻が送ってきた次男の写真が、私の唯一の励みでした。その写真は、今でも院内の私の机の前に「お父さんファイト」のコメント付きで大切に飾ってあります。あの時の苦しさは、とにかく信頼してついて来てくれた妻に、大切な子供達の為に頑張らなくてはの思いが有ったからこそ、乗り越えられたと思います。

また、自分が子供の時に大怪我をして、常に死と向かい合っていた頃を思えば、夢を叶えようとして頑張っている事に感謝できる心を持てた事も大きかったと思います。独身なら間違いなく夜逃げしていたと思います。

→実際に脱落者は何人かいましたから! もう一回やれと言われても、もう無理!!

そんな合宿生活を無事に終え木更津に帰る日は、なんとも言えない充実感と今度こそと言う期待、そして多少の不安を抱いた事を今でも鮮明に覚えています。研修を終えた後も、毎月2泊3日の集中稽古に浜松まで3年間通いました。

そんな苦労もあってか、いつしか全国から私の元に整体を習いに来る先生方も現れ、今迄約50人の先生方が卒業して行きました。

このような地道な努力を重ねられたお陰で、すこやか整体院も地元に少しずつ知られるようになり、患者様から信頼される整体院になる事ができました。

これからも患者さんの為に技術を磨き、地域で一番愛される整体院を目指し、信頼を積み重ねていく次第です。

長々とお読みいただき、ありがとうございました。

アクセス

すこやか整体院(千葉県木更津市永井作1-2-6)


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